2018年春季祭典

牛牧区章「輪違い紋」

牛牧区章「輪違い」について


1)「輪違い」が牛牧に伝承された由来
 天正11年(1583年)4月、豊臣秀吉と柴田勝家が賤ヶ岳で戦った折、七本槍で有名な豊臣七近臣の一人、脇坂氏の次男 案元候は、凡そ350年ほど前に飯田城主になり、その子安政候と2代にわたりこの地を治めた。
 その頃領内にいくたびか出火があり、いずれも大火となった。近隣の応援が必要となり出動した牛牧村の火消組は、城主の要請に応えて見事に大手門を守り城は火災から難を逃れることが出来た。
 その功績は城主脇坂候に認められ脇坂氏の家紋(輪違い)の紋を下賜され、火消しの象徴である纏の旗頭に着用を許されたと語り伝えられている。
 以来、村人は先人たちの遺勲を一致団結協力したこの姿を高く掲げ和と協調の精神をいつまでも後世に伝えんとして来たものである。

2)脇坂氏と(輪違い)の紋について
 脇坂案元の先代安治は豊臣に仕えるが、天正6年播磨三木城を攻めたとき秀吉が赤絹の母衣に白い輪違いの紋を付けていたのを安治が所望し、戦功によりこの母衣を拜しそれまでの桔梗紋を改めて(輪違い)としたと言われている。

3)牛牧の象徴としての(輪違い)
 火消し組が消防組に変わり更に消防団に変遷し、地域の治安防火に活躍する近代から現代にかけて(輪違い)は纏の旗頭からひろく牛牧のさまざまな分野に用いられるようになった。
若者はそれぞれの名前を書き抜いた提灯に(輪違い)を入れ、神社の紅灯には(輪違い)の紋を力強く鎖状に図案化して描き、戦後になっては伝統芸能獅子囃子奉納若連や祭りに参加する子供たちのそれぞれの法被の背に、また青年衆はその法被の裾に、或いは民謡踊りの婦人たちはその法被にとそれぞれ染抜き、近代にいたっては牛牧伝統芸能伝承館ステージの緞帳の中央に(輪違い)をあしらい、はたまた(輪違い)を染め抜いた区旗を制定するなどして区民の連帯意識の高揚、防火思想啓蒙にと今なをその精神は脈々と引き継がれている。




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